『子どもが育つ魔法の言葉』の「詩」について

  
 昨日付けからの続きです。
  
 元の「詩」の個人的な感想については、事情もあって詳しく書く気はなかったのですが、書きますと、私は以下のように評しています。

綺麗事の詩に綺麗事を返して、それを皮肉る人が現れたら、最後に出たのは「人間性を疑う」だった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 この「詩」は「綺麗事の詩」です。

 草さんは、「こうした認識に立ってみれば」という仮定の前提条件に限定した上でですが「奇麗事のウンコポエム」と書き、価値が無いと書いています。

こうした認識に立ってみれば、「こう育てればこう育つ」というような教育マニュアルや奇麗事のウンコポエムに、たいした価値が無いことは明らかだろう。

http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070925/p1

 繰り返しますが草さんの発言は、仮定の前提条件に限定した話ですからね。誤読しないように。
 私はこれを「綺麗事の詩」だとは思いますが、ウンコだとも思わなければ、価値が無いとも思わないんですね。前提条件が違うので。
 「綺麗事」には綺麗事の価値があるからです。
  
 私は、俗流道徳には、俗流道徳の良い点もあれば、悪い点もあると考えます。
 「人を見て法を説け」「嘘も方便」であって、俗流道徳はモラルを生むこともあるし、生活の知恵としての世間知になることもある。
 その一方で、俗流道徳は、俗流であるが故の生臭い説教臭はするし、俗流である限界をすぐに露呈する。わかり易さ故に意図的に歪められて流通させられるなどの弊害も生む。
 しかしそれでも、モラルとしての価値規範になることは、非常に多い。
  
 元の「詩」が、どういう意図で、なんの目的で書かれているのか?
 あの「詩」は、「標語」だと考えればいいのです。
 「子供を殴るな」「愛情を持って育てよう」
 そういう「標語」なのです。
  
 たとえば交通安全の標語があります。
 「注意一秒、ケガ一生」
 この標語を読んで、「たった一秒の注意を怠ったがために、一生治らないケガをすると脅迫されているようで嫌いだ」と言う人はいないでしょう。
 この標語は「事故に気をつけろ」と言っているわけです。
 道路を歩くときにビクビクさせる目的ではなく、今そこで起きる交通事故に喚起を促す目的で書かれているわけです。
  
 あの「詩」は、今、ここで殴ろうとしている親の拳を止めるために書かれたものです。たぶん。
 あの「詩」が厳密な意味で事実かどうか、などということは極めてどうでもいいことであって、親に殴られそうになっている子供が殴られないように手を差し伸べるならば、嘘であれ、後ろからの羽交い絞めであれ、手段は何でも良いわけです。
 「子供を殴るな、っつー要旨はわかるけど、そのダシに『殴られて育った子供』を使うなよ。殴られて育った子供が傷つくぢゃんか」というのは理解できるわけですが、あの「詩」で、これから殴られる子供が減るのならば、それはこれから殴られる子供が減るほうにプライオリティを置けばいいんぢゃないか。
 まして、すでに大人になっている「殴られて育ったかつての子供」が古傷で傷つくかどうかよりも、今殴られるのを防いで、同じ経験をする子供を減らすことのほうが大事ではないのか?

そう思われるんでしたら今すぐ子供に手を差し伸べてください。救ってください。

http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062#c1189957170

 この「詩」によって、殴ろうとしたのを思いとどまる親が一人でもいるならば、この「詩」こそが、今すぐ子供に差し伸べられた手であり、救うための「綺麗事」だと言えるわけです。
 本当に今殴られている子供を救いたいのならば、今子供に差し伸べられている手に「嫌いだ」とか「非科学的だ」とか言っている場合ではないわけです。
  
 「子供を殴るな」「愛情を持って育てよう」「事故に気をつけろ」
 これらのメッセージを伝えるために、手を変え品を変えて注意を心に留め置かせようとするならば、より効果的な言葉を選んで使おうとすることは当然のことです。
 ただ「子供を殴るな」とか「愛情を持って育てよう」とか「事故に気をつけろ」というよりも、別の視点からも心に残そうとする努力の一環です。
 「注意一秒、ケガ一生」という標語に対して、「交通事故に遭う際の『不注意』である時間が一秒であると言うのは統計的に有り得ず非科学的である」とか「交通事故における被害が一生治らないという統計は出ていないし、嘘である」とかケチをつけてもしょうがない。子供じゃないんだから。
  
 まず手を差し伸べて救うべきは、「こう育てられたらこうなるかも」と言われて不安になるかもしれない子供や、まして「大人」などではなく、今から殴られようという「子供」でしょう。
 この「詩」が綺麗事だろうが、嘘だろうが、非科学的だろうが、今殴ってる親が思い止まり、殴られている子供が助かるなら、その「標語」として「差し伸べられた手」にケチをつけても始まりません。
 そして、この「詩」を読んだ、今殴られている「子供」がもし傷ついたならば、精神分析という胡散臭い疑似科学っぽい認識に小首を傾げて立ってみれば、傷が癒されるかもよ、と手を差し伸べるのも一つの手でしょう。