「頭の良い人は難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題に見える思想性

  
 別の話のコメント欄での発言で『「世界にたったひとつの花」教。「人はいろいろです」教。「頑張れば未来が」教(←全部繋がってる)』というのがあって、そもそも頭の良い人なら、もう既にここで内容の察しはついていることでしょう。
  
 この件に関するブックマークコメントやエントリの中で「わかりやすい説明をする能力と、難しい概念を理解する能力とは関係がない」とか「説明したい相手のレベルに合わせた説明を云々」という意見が結構出ています。
 私はそれに対して「莫迦と言うのは理解力に乏しいから莫迦なのであって、理解力が著しく欠ける者にはどれだけ説明しても理解はできない」と書いているわけです。
  
 「『頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ』問題 の解説」の追記にて、「足し算すら知らない人に割り算まで理解させるとなると、教育方法としてはある程度のラインであると考えられる義務教育ですら、割り算を教える所まで到達するのに270時間程掛けてい」る現状の話が出ています。
 もちろんこれは授業の時間数だけの数字であって、授業だけでは理解できない子供などは、家や塾で勉強したりが必要ですし、宿題の時間などもあるでしょう。
 しかもこれは、税金を使って専門?の大人が職務として教えてくれるものであって、これだけの時間をかけているわけです。たかが整数の割り算に。
 たとえば、足し算もわからない、数の概念もわからない人間に対して、高等数学を理解させようと考えたら、どれだけの時間がかかるのか。人によっては簡単に寿命との競争という話になりそうです。
  
 私はどうもこの「説明する側の説明する能力」とか「頭の悪い人にも、その人に合った説明の仕方をする」とかという主張の背後には、どうも民主主義的な欺瞞が付きまとっているように思えてしまう。「頑張れば未来が」教ね。
 万人に理解する能力は備わっているんだけれども、その作業をしていないだけであって、手順を追ってわかるように説明すれば、必ず誰もが理解できるはずだ、という「希望」が含まれているような気がしてならない。
  
 受け取り側の問題にもきちんと言及しているエントリもあった。かなり同意できるないようだったんだけれども、重要なところで一点大きく違う。
 優しいものだから「興味の有無」によって「理解の程度」を見ているわけです。そしてそれには「環境」が大きく左右する、と。
 これに関しては私はほとんど概ね同意で、ほぼ異論はないし、私の元来の主張にもマッチしているのですが、私がほんの少し留保する部分があって、それが「才能」ひいては「遺伝」です。
  
 100mの距離を10秒かからずに走りきる人間が存在します。
 たとえば私が生まれてすぐに100mを走る訓練ばかりつんだとしたら、私も10秒を切ることができたのだろうか?
 おそらくそんなことはないだろうと思われるわけです。幼児の頃からそのためのトレーニングを積んだとしたら、かなり早く走れるようにはなるでしょう。私が「環境」説にほとんど概ね同意するのはこれが理由です。
 しかしだからといって、それが100m走で10秒を切るかというと、それは無理だと思われるわけです。というか無理です。
 肉体的なものに関しては「遺伝で無理だな」とか比較的に簡単に思ってしまえるのに、頭の良さという問題になると誰でもつい「やれば誰でも」という「希望」を持ちたくなってしまうのは、民主主義思想に毒されて「平等」で「啓蒙」という建前を感じてしまうからなのでしょう。
  
 オリンピックでは、0.01秒が大きな違いになりますが、日常において100mを走るのに1秒余計にかかろうが、2秒遅かろうが、それは大した問題ではありません。30秒かかったとしても、人生において別に困りません。
 しかし、惜しむらくは、私が今、速く走りたいと思ってトレーニングをしたとしても、トレーニングしたなりに速くはなるでしょうが、10秒近くで走れるようになることはないでしょう。というか無いです。
 どれだけ教えるのが上手い素晴らしいコーチの指導を受けても、もう無理でしょう。というか無理です。100mを12秒で走れるようになるのも厳しいのではないか。
 10秒なんて「頑張れば可能性が云々」よりも「無理です」と教えてあげたほうが親切だと思います。
  
 たとえばtorlyさんの文章を例に取れば、理解する難易度は、100mを12秒ぐらいでしょうかね? レベル的には。よく知らんけど。
 「生まれつきの才能で無理」な人もいれば、「今更練習しても無理」な人もいれば、「練習すればなんとかなるだろうけど練習する気はないでしょ?」という人もいます。酷いのになると、コースを外れているのに自己認識で10秒でゴールしたつもりになっている奴もいます。
 それなりの練習で何とかなる可能性のある人でも、「なんでそこまで付き合わされなきゃならないの?」と、教える側は当然思うわけです。自分でトレーニングしろよ。「何故に本を買って読まないのか」と。積極的にトレーニングをする気がない人間は、良いコーチが付いたって速くは走れないよ。
 「やればできるのかもしれないけど、やらない」というのは、もはや「やれない」と一緒でしょ。
  
 それぞれの事情で「理解ができない」人というのはいるわけで、「万人に理解ができる易しい説明」というものがあるとは限らない。
 しかし何故か、頑張ればなんとかなるんじゃないか、と思わずにはいられない。
 それが「良い説明が無いからだ」とか「その人に合った説明があるはずだ」とか「環境さえ整っていたら誰だって」という考え方には、近代的な民主主義臭がプンプンとしています。まるで着飾ったオバサンの香水のように。
 人は誰にでも可能性があるんだ。君にも超能力があるんだ。