『アーティスト症候群』

 ネットで注文した『アーティスト症候群』が届いた。
  
 主人公で不器用な高校生である墓本鬼太郎の学校から、全国愛国弁論会のグランプリ受賞者が選ばれる。その表敬訪問に、二千七百年前の祭司を祖に持つ皇帝一族の春礼親王が学校を訪れたことから物語は始まる。
 学校の廊下に張り出された墓本鬼太郎の絵に、春礼親王は目を留める。春礼親王は鬼太郎の絵を譲ってもらいたいと言い出す。春礼親王は皇帝一族でも随一で芸術に造詣が深く、国内でも有数の目利きと知られている。
 校長は鬼太郎を呼び出し、春礼親王に先の絵を献ずるように勧める。鬼太郎は戸惑う。鬼太郎の絵は、高校生とも思えないような稚拙なもので、鬼太郎本人もただただ不器用な子供の下手糞な絵レベルだと自覚していたからだ。
 鬼太郎が「こんな下手な絵を親王殿下に献上するのは恥ずかしい」と固辞すると、春礼親王は「一億円の謝礼でどうか?」と持ちかける。鬼太郎は驚くも「こんな絵に一億円も貰えない」と無料で進呈しようとするが、春礼親王は後日必ず支払うからと連絡先を記録して御所に戻る。
  
 後日、黒いスーツを着た遣いの者がアタッシュケースに三億円を詰めて鬼太郎の家に来た。
 先日の絵に約束の一億円と、新たに十枚の絵を描いてもらい、それを総額二億円で買い取りたいという。
 鬼太郎は「一枚二千万円の絵などどう描いていいのかわからない」と断るのだが、鬼太郎の母親は欲に目が眩み「親王殿下に不敬があってはならない」と、鬼太郎に描くように強要する。
 鬼太郎は何をどう描けばいいのかわからぬまま、子供の落書きのような下手な絵を描くのだが、春礼親王はそれに満足し、「なんとも言えない絶妙な味わいと暖かさがある」と評価する。
 春礼親王の後押しもあり、絵につけられた一億円という価格も話題となり、鬼太郎の絵は大評判となる。
 鬼太郎の絵を「子供の落書き」と評する芸術家や評論家も現れるが、嫉妬に狂う才能の無い画家だとか、絵の良さがわからない節穴評論家だとか批判され、さらには皇帝一族を崇め奉る団体に脅されるおまけまで付いて、批判する者は消えていく。
 鬼太郎の芸術家としての地位は飛躍的に高まっていく。
 鬼太郎の絵の評価が高まれば高まるほど、鬼太郎はどんどんと不安が増してくる。
 鬼太郎は、何がどうして評価をされているのかが自分で理解できていないからだ。鬼太郎は美術の先生に聞くことにした。
 これまで鬼太郎の美術の成績は五段階評価で「2」だったものが、突然「5」になったのだが、美術の先生も「今まではデッサンの力だけで評価していたが、これからは全体的な評価に変えたので……」などと言い訳をしていて、鬼太郎の絵がどう高く評価されているかを教えてくれなかった。
  
 春礼親王は「庶民にも芸術を楽しんでもらうため」との理由で、鬼太郎の絵を一枚競売にかけた。鬼太郎の絵は、林山財閥が個人収集の美術館に飾るために五億円で落札した。
 自分の絵に五億円の価値があるのか?
 鬼太郎は言い知れぬ不安に苛まれる。芸術家として評価されている自分の虚像と自分で理解している自分の実像の間に揺れてノイローゼ気味になってくる。
 やがて鬼太郎は、黒いスーツを着た男に命を狙われているのではないかと怯え始める。
 鬼太郎の怯えは、作家、表現者として、自己を見つめすぎるが故のエキセントリックな幻影であると見られていたが、鬼太郎のクラスメイトである平野祢子だけは、鬼太郎を殺すことにより、その絵に希少価値をつけて高く売ろうとしている春礼親王の企みで、実際に鬼太郎の命は本当に狙われているのではないかと確信していく。
  
 鬼太郎と祢子は、春礼親王の手下から逃げ延びられるのか?
 それとも、鬼太郎の芸術家としての重圧から来る精神的病状による妄想の産物に祢子も巻き込まれているだけなのか?
 現実と妄想が綯い交ぜになったような筆致でストーリーは続いていく痛快ドタバタ冒険活劇。
  
 読者の意表を突く最後の大どんでん返しはお見事としか言いようがない。一緒に逃げるうちに、鬼太郎が祢子に心を惹かれていく描写も面白い。
 鬼太郎は祢子に「美しさ」を感じ、この美しさを芸術として表したいと渇望し、その美しさを描こうとしてデッサン力の無さを嘆く場面などは滑稽でもあるが切ない。
  
 芸術性という、はっきりとした根拠が必ずしもあるわけではないものに振り回され、その不確かな根拠に多額の金銭的価値を乗せられる重圧と不安感。
 資本主義的市場主義的に取り込まれている「芸術」という『価値』を、その「かたちのないもの」をどう扱って、どう考えたら良いのか、を考えさせられる。
 「芸術」は、資本主義や市場主義に下部的価値観として取り込まれてしまって良いのか。そこを作者は問うているような気がする。
  
 「奇を衒う」ということと「進取の精神」の違いが曖昧になっている「現代芸術」に翻弄される鬼太郎の心の様は、実は、多少の程度の差で、全ての芸術家も感じている病なのかもしれない。