「ネットは議論に向かない」

  
 「ネットは議論に向かない」みたいな意見を見かけることがあるが、それはただ単に、その人が議論に向いてない人なんだろう。
 ネットでは直接的な物理的暴力で屈服させる手続きが面倒臭いというのならば、ある程度は納得できるが、それは電話でも大差はないのであるから、ネットが特別に議論に不向きということはない。*1
 表情や声の機微を見たり感じたりすることが出来ず、文字情報にのっぺらにされるからネットは議論に不向きだという意見もあるが、職業的議論屋さんは雑誌や新聞で議論したりすることが普通にあり、ネットのようにインタラクティヴではなく、月刊誌などは一往復に二ヶ月以上かかったりする不自由の中で議論をしている。
  
 即応性に優れ、データベースと直結しているインターネット環境が、特別に議論に向いていない理由など思いつかない。
 ネットが議論に向かないと思っている人は、ただその人が単に議論に向いていない人なんだと思う。
 逆に、そういう人は、どのツールならば議論に向いているのだろう?
 しがらみや立場や実利に引きずられやすい対面よりも、ネットのほうが議論に向いている面もあるというのに。

*1:殴って言うことを利かせることがまともな議論とも思えないが

 神様を信じる強さを僕に

  
 私は基本的にジブリ作品はほとんど見ていなかったのだけれども、ジブリの絵職人・男鹿和雄展を見に行った。
 私は絵のことはわからないのだけれども、森の作る陰影と木漏れ日の光の対比が非常に印象に残った。「上手い具合に描くなぁ」という極めて素人くさい感想である。
 で、絵そのものの感想ではなく、おそらくは監督の宮崎駿の趣味なのだろうけれども、その森に、祠や鳥居や社や道祖神などといった土着宗教絡みのモチーフが多く描かれていた。
 森、そこに自然というテーマがあるのだろうけれども、それ以上に、人智の及ばない奥行きとして、森を鎮守の杜にしているのだろうと思うのだが、ジブリ作品をあまり見ていない以上なんとも言えないし、おそらく見ている人の緻密な分析が既にされていると思う。
 ただ、展覧会を見て思い出す出来事があった。
  
 私はギックリ腰の癖がある。
 こないだもぎっくり腰をやって二週間ぐらい寝込んだ。
 寝込んでいるところに身内の人が一歳になる子供を連れて家に来た。
 私が動けなくて寝込んでいるのを見て、一歳の子が治そうと「痛いの痛いの飛んでけ」とやろうとした。それが痛いわけであるが、その子はさらに私の腰に「ちぅ」とキスをした。
 私はその一歳の子の接吻に思わず勃起するところであった。
 その子にとって、転んだりして痛いことがあったとき、両親や祖父母にしてもらうことを真似て、私にしているわけだ。
 それは単なる形式的な儀式であるのか、あるいは、それで本当に痛みが消えると一歳の子が信じているのか、それは私にはわからないが、とにかく微笑ましくて笑ってしまった。動けるものなら抱擁してディープキスぐらいしたい勢いだ。
  
 数日後、まだ寝込んでいる私に電話があった。
 その親子からだ。母親が「調子はどう?」と心配してくれていた。まだ寝込んでいることを告げた。
 すると母親が面白いことを言った。一歳の子が、私の腰が早く治るように「何かにお願いしてるよ」と言うのだ。
 私は何気なく「ああ、神様にお祈りしてくれてるんだ」と答えると、「うん。何かにお願いしてる」とのこと。
 ああ、違うんだ。
 「神様」ではなく「何か」。
 「お祈り」ではなく「お願い」。
  
 私は概念として「神様」に「お祈り」するという形式上のイメージを持ってしまっているが、子供にとってみたら、自分でも親でも解決できない、人の手を超えてしまっていることを叶えたいと思うのを、そのまま「未知のもの」に「願う」わけだ。*1
 手を合わせて言挙げるという、かなり原初に近いものですら、形式であることを思い知らされる。そこには「縋る」という剥き出しの欲望と謙虚さしかない。
 事実、私は、その「お願い」された「何か」によって、ぎっくり腰は治るわ、盲いた目は見えるようになるわ、聾しい耳も聞こえるようになるわ、唖した口も利けるようになるわ、萎えた足も歩けるようになるわ、癩病も治るわ、ヤコブ病も治るわ、水の上も歩けるわ、ウハウハになりました。
 御利益という観点から語ることこそ莫迦莫迦しい合理主義的視点であることを承知の上で言っても、この効果は目覚しい。なにしろ現代医学では治らないものまで治るのだから。
  
 現代日本では、なんらかの宗教を信じることが酷く格好悪いことのように思われている風潮がある。
 「僕らの生まれてくるずっとずっとずっとずっと前にはもう人類を月に行かせた科学主義が、全世界を遍く照らして闇をなくしているというのに、どうやって宗教を信じることが出来るの?」という話である。
 宗教を信じる奴は、どっかちょっと精神が弱くて若干イっちゃった奴というイメージを持たれがちだ。
 新宗教の勧誘に持っていかれちまう弱さ。オウム真理教事件における宗教やっている奴ってちょっとね感。911におけるイスラムによるテロ事件での「宗教なんか信じるから殺し合う」論。伝統宗教における坊主や宮司どもの俗物的地味さ。池田大作
 宗教なんかやっている奴は騙されている莫迦で、無宗教にあらざらむ者はみな人非人なるべしと言っても過言ではない。
  
 親を含め、宗教話が可能な関係性の人と話をすると、ほとんどの人は「宗教なんて、ねぇ。なんであんなもの信じるんだろうね」的なスタンスをとる。
 宗教を信じている奴は莫迦で、無宗教の俺って格好良い、という前提でもあるかのようだ。
 だが、たかだか現在の科学力如きで万能感を持つのは、ちょっと恥ずかしいのではないだろうか。
 ままならぬことを「何かにお願い」するという縋りたい気持ちこそ、宗教の本質であり、これを否定する「思い上がり」こそ、無様で醜悪で格好悪いを極めていると言える。
  
 しかし、その「手を合わせて言挙げる」ことすら形式的に思わされる「畏怖の念」という宗教の本質というか原初を身を以って感じてもなお、知識として「宗教は儀礼的な形式」が必須であることも知ってしまっている。
 人間は弱さ故に信仰が必要であるにも関わらず、その弱さ故に形式がないと信仰を続けられないのだ。
「本質」から離れることによってのみ、人間は信仰を続けられるというのは、もはや人間の業と言っても良いかもしれない。
 無宗教であることを自称するのは無知であり知的怠惰であるのだが、ある特定の宗教を選び取ることもまた、相当の覚悟を必要とする話である。
 とりあえず私は、最近はご利益の薄いエリカ様教を棄教し、その一歳の子に帰依することに決めた。似ているので、仮の御真影として石井萌々果ちゃんを使おうと思う。

*1:まぁ、親と寺社参りはしているから、完全に規制の概念の形式から自由なわけではないが

 科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘

  
 ブログ「しあわせのかたち」から、文学とは何か? と、そのコメント欄から発生した次の記事、「学問」、「科学」という名の信仰という二つの記事をあわせて読んだ。
  
 「物語の読み方は自由である。唯一の『正解』は『読者の数だけある』」という話についてなんですが、先サイトのコメント欄では、明らかな莫迦は間違っている、もしくは莫迦といって差し支えないのではないか、という話をしている。
 それすらせずに、線引きなんてできないよね、という相対主義的撤退戦というのは、あまりにも臆病過ぎていて、何も言っていないに等しくなるというか、そもそも論として元のテクストの価値すらも否定するものではないか、という話である。
 この時点で話についてこられない方はいないとは思うけれども、いたとしたら、その人はもう莫迦と言って差し支えないのではないか、というのが私の主張である。
  
 たとえば、日本最古の物語ともいわれる『竹取物語』を読み、「この作者の言いたいことは、朝食を摂る重要性とそのダイエット効果にある」などと言っていれば、余程の裏がない限り、間違っていると言ってしまったほうが良い。
 ただ、同じぐらいの偏差値に思えるような「美人ってわがままでも許されるって話だよね」というのは、一見莫迦っぽく思えるかもしれないけど、強ちどころか、まるっきり外れていないため、これを間違っているということは難しい。
 その一方で、「ブルジョアや権力を持つ人間は酷い目に遭うものなのだ」という共産主義プロパガンダ的理解になると、知的なのか莫迦なのか一周まわって判断に困る。
 しかし、どこまでいっても「朝食を摂る重要性とそのダイエット効果という話」という読みは、間違っているとか、ハッキリ莫迦だと言うべきだろう。
  
 「学問」、「科学」という名の信仰という愚にもつかない記事の最後で、以下のような記述がありました。

 ある種の考え方、思想、論考は、それが優れているだけに、一見「なんにでも使えてしまう」ように見えてしまいます。マルクスの考え方も、フロイトの考え方も、ボーヴォワールも、レヴィ爺やポパーの考えでさえ、「それが有効な場面と、そうでない場面がある」ということを常に意識しておくこと。
 そうでないと思想自体が死んでしまう(マルクス主義がよい例ですね)ということは、再三指摘されていいことだと思うので、書いておきます。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20080315/1205558393

 これは本当でしょうか?
  
 私が先ほど書いた、竹取翁の物語の共産主義プロパガンダ風理解の類のことを指していると思われますが、そんなんで思想が死ぬんでしょうか?
 例えば、竹内久美子がどれだけ利己的遺伝子を万能風に書いたとしても、それで死ぬのは、ドーキンスでもダーウィンでもなくて、トンデモ竹内の信憑性だけでしょう。
 マルクス主義が死んだのは、トンデモによりオールマイティに使われたことよりも、実践してみたんだけど、誰も実践し切れなかったし、どうも、誰がやろうにも無理っぽいよね、という死に方じゃないの?
 遺伝子であれ脳内物質であれ無意識であれジェンダーであれ、一元的に、もしくは二項対立で、世界中の全てを語り得てしまえるという考え方が眉唾なのは世間知としてはその通りではあるのだけれども、マルクス主義がそうすることによる死に方であったのかどうかは、疑問を感じます。
  
 イデオロギーというのは、世界の切り取り方とも言えるわけで、原則的にはそのイデオロギーのフィルターを通して、世界を見るわけですから、そのイデオロギーは万能として使われるのは、ある意味で止むを得ない面もあります。
 問題は、イデオロギーによって、他の切り取り方が莫迦に見える場合というのがあります。
 例えば、日本で最も有名な物語の一つである『桃太郎』。
 反実力成果主義年功序列主義の生徒が「この物語では、活躍如何に関わらず、きび団子が支給されるという安心感により、ファミリー的な団結が生まれ、犬猿の仲と言われるほど仲の悪い犬と猿が協力し合い、その結果として強大な鬼にすら勝つこともできるという教訓が含まれている」と答えたとする。
 これを、リベラリストの教師が「この生徒は駄目だ。被雇用者である犬猿雉は、きび団子を労働前に支給されるという、いわば前借金制度の被害者であり、嫌でも強大な鬼と戦わなくてはならない、ほとんど奴隷として扱われる可能性について問題視すべきだろう」と判断するかもしれない。
 さらにこの生徒の父親は反植民地主義オリエンタリズムで「一方的に『鬼(野蛮)』と呼ばれて差別される者が、鬼退治なる正当化のためのスローガンとともに、畜生どもに侵略されて襲われる悲哀を描いた話なのに」と先生に詰め寄るかも知れない。
 その話を聞いた生徒の母親は、自分の夫に「桃太郎が勇敢であるという描写は、ジェンダーの規範を押し付ける物語であり、爺さんが芝刈りに行き、婆さんが洗濯するというのも、女性を家事に押し込めるという、男社会を強化させるための物語だ」と言うかも知れない。
 あるいは人によっては桃太郎を単なる英雄譚として「桃太郎って勧善懲悪で鬼をやっつけるヒーローだよね」と読むかもしれない。
 ここまでくると、どのイデオロギー莫迦で、どのイデオロギーが深いというよりも、筒井の「一杯のかけそば」分析や、スケベメガネおっさんによる『大塚愛「さくらんぼ」分析』のように、知的遊戯のネタなのか、あるいはマヂなのか、「もうそれって『桃太郎』は関係なくね?」ってレベルに至ったりする。
 それ、別に『桃太郎』から読み取るのは間違ってんじゃねーの? というね。
  
 ただ、一つだけ言えることは、ある一つのイデオロギーや、一つの読み方しかできない者が、自分の読み方を「これが正解だよね」と思い込む読み方よりも、複数のイデオロギーによる複数の読み方をできるだけ多く踏まえた上で、一番妥当であったり、知的であるものを「選び取る」という工程を経たものの方が、間違いなく価値が高いのではないか、ということである。
  
 莫迦にはどうやっても理解できない高度な読みというのは少なからず存在し、その読みの価値が、「だって、考え方って人それぞれだよね」などという莫迦な妄言一つを印籠のように相対化させて「どっちも等価値」なんかにしてしまって良い訳がないと思うんですけど。

 『アーティスト症候群』

 ネットで注文した『アーティスト症候群』が届いた。
  
 主人公で不器用な高校生である墓本鬼太郎の学校から、全国愛国弁論会のグランプリ受賞者が選ばれる。その表敬訪問に、二千七百年前の祭司を祖に持つ皇帝一族の春礼親王が学校を訪れたことから物語は始まる。
 学校の廊下に張り出された墓本鬼太郎の絵に、春礼親王は目を留める。春礼親王は鬼太郎の絵を譲ってもらいたいと言い出す。春礼親王は皇帝一族でも随一で芸術に造詣が深く、国内でも有数の目利きと知られている。
 校長は鬼太郎を呼び出し、春礼親王に先の絵を献ずるように勧める。鬼太郎は戸惑う。鬼太郎の絵は、高校生とも思えないような稚拙なもので、鬼太郎本人もただただ不器用な子供の下手糞な絵レベルだと自覚していたからだ。
 鬼太郎が「こんな下手な絵を親王殿下に献上するのは恥ずかしい」と固辞すると、春礼親王は「一億円の謝礼でどうか?」と持ちかける。鬼太郎は驚くも「こんな絵に一億円も貰えない」と無料で進呈しようとするが、春礼親王は後日必ず支払うからと連絡先を記録して御所に戻る。
  
 後日、黒いスーツを着た遣いの者がアタッシュケースに三億円を詰めて鬼太郎の家に来た。
 先日の絵に約束の一億円と、新たに十枚の絵を描いてもらい、それを総額二億円で買い取りたいという。
 鬼太郎は「一枚二千万円の絵などどう描いていいのかわからない」と断るのだが、鬼太郎の母親は欲に目が眩み「親王殿下に不敬があってはならない」と、鬼太郎に描くように強要する。
 鬼太郎は何をどう描けばいいのかわからぬまま、子供の落書きのような下手な絵を描くのだが、春礼親王はそれに満足し、「なんとも言えない絶妙な味わいと暖かさがある」と評価する。
 春礼親王の後押しもあり、絵につけられた一億円という価格も話題となり、鬼太郎の絵は大評判となる。
 鬼太郎の絵を「子供の落書き」と評する芸術家や評論家も現れるが、嫉妬に狂う才能の無い画家だとか、絵の良さがわからない節穴評論家だとか批判され、さらには皇帝一族を崇め奉る団体に脅されるおまけまで付いて、批判する者は消えていく。
 鬼太郎の芸術家としての地位は飛躍的に高まっていく。
 鬼太郎の絵の評価が高まれば高まるほど、鬼太郎はどんどんと不安が増してくる。
 鬼太郎は、何がどうして評価をされているのかが自分で理解できていないからだ。鬼太郎は美術の先生に聞くことにした。
 これまで鬼太郎の美術の成績は五段階評価で「2」だったものが、突然「5」になったのだが、美術の先生も「今まではデッサンの力だけで評価していたが、これからは全体的な評価に変えたので……」などと言い訳をしていて、鬼太郎の絵がどう高く評価されているかを教えてくれなかった。
  
 春礼親王は「庶民にも芸術を楽しんでもらうため」との理由で、鬼太郎の絵を一枚競売にかけた。鬼太郎の絵は、林山財閥が個人収集の美術館に飾るために五億円で落札した。
 自分の絵に五億円の価値があるのか?
 鬼太郎は言い知れぬ不安に苛まれる。芸術家として評価されている自分の虚像と自分で理解している自分の実像の間に揺れてノイローゼ気味になってくる。
 やがて鬼太郎は、黒いスーツを着た男に命を狙われているのではないかと怯え始める。
 鬼太郎の怯えは、作家、表現者として、自己を見つめすぎるが故のエキセントリックな幻影であると見られていたが、鬼太郎のクラスメイトである平野祢子だけは、鬼太郎を殺すことにより、その絵に希少価値をつけて高く売ろうとしている春礼親王の企みで、実際に鬼太郎の命は本当に狙われているのではないかと確信していく。
  
 鬼太郎と祢子は、春礼親王の手下から逃げ延びられるのか?
 それとも、鬼太郎の芸術家としての重圧から来る精神的病状による妄想の産物に祢子も巻き込まれているだけなのか?
 現実と妄想が綯い交ぜになったような筆致でストーリーは続いていく痛快ドタバタ冒険活劇。
  
 読者の意表を突く最後の大どんでん返しはお見事としか言いようがない。一緒に逃げるうちに、鬼太郎が祢子に心を惹かれていく描写も面白い。
 鬼太郎は祢子に「美しさ」を感じ、この美しさを芸術として表したいと渇望し、その美しさを描こうとしてデッサン力の無さを嘆く場面などは滑稽でもあるが切ない。
  
 芸術性という、はっきりとした根拠が必ずしもあるわけではないものに振り回され、その不確かな根拠に多額の金銭的価値を乗せられる重圧と不安感。
 資本主義的市場主義的に取り込まれている「芸術」という『価値』を、その「かたちのないもの」をどう扱って、どう考えたら良いのか、を考えさせられる。
 「芸術」は、資本主義や市場主義に下部的価値観として取り込まれてしまって良いのか。そこを作者は問うているような気がする。
  
 「奇を衒う」ということと「進取の精神」の違いが曖昧になっている「現代芸術」に翻弄される鬼太郎の心の様は、実は、多少の程度の差で、全ての芸術家も感じている病なのかもしれない。

 なんぼなんでも可哀想過ぎる

  
 さて、お蔭様で心置きなく容赦なく叩けます宣言みたいなのを書いたのですが、私が叩かなくても、id:tomo-moonさんはしっかりと充分に酷い扱いを受けてますね。自業自得だけど。

2008年02月17日 id:feather_angel 議論をしたいと言う人間の半分くらいは議論をしたいのではなく「俺の話を聞け俺の正しさを認めろ」でtomo-moonさんは過去にそのタイプに散々絡まれたので過敏になっているの。ごめんね

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/soulfire/20080216/1203125637

 これって言い換えると、「頭の弱い可哀想な子なんです、許してやってください。謝ってほしいなら私が代わりに謝りますから」ということでしょう。
 普通なら「ちゃんと躾けろや」という話ですが、親でもないわけで、どこまで責任を追う覚悟があるのかわからないんですが、それを受けてid:soulfireさんは

でもフェザーさんのコメントからは、他人を庇える優しさを感じ、私は本当に感動しています。

http://d.hatena.ne.jp/soulfire/20080217/1203231155

 と号泣して感動していらっしゃるようです。
  

[議論と対話]主旨ずれだが、はしごたんさんは「芸」の域なので一緒にして欲しくないなぁ/びーさんの気持ちは分かるんだけど傷つきたくなければ学習するべきだとは思う。でもするかしないか自由だししなくても全然いいよね?

http://b.hatena.ne.jp/feather_angel/20070926#bookmark-5987402

[議論]私の部米論旨は「学習するか否か」に重きをおいている。好きに言えばいいも派生してくるが学習して叩かれなくなるか学習しないで繰り返し叩かれるかの選択を指している

http://b.hatena.ne.jp/feather_angel/20070928#bookmark-6008786

 b_say_soさんには、叩かれたくなかったら学習しろ、とおっしゃっていたfeather_angelさんは、同じく自他共に認めるほど頻繁に叩かれているともさんには「可哀想な子なんです、許してやってください。謝ってほしいなら私が代わりに謝ります」というスタンスであるわけで、びせいそさんは「やれば出来る子」として見ていながら、ともさんは治らない「可哀想な子」として扱っているわけです。
 こんなフォローなんかされても、本人は不本意なんじゃないでしょうか?
  
 id:soulfireさんも、ともさんの悪口を書いておりまして、ともさんもsoulfireさんのことを「電波」とか自爆ブーメランで書いているのでお互い様なのですが、ちょっと言い過ぎな気がします。

川上信者だから言ったんじゃねーよ、このtomomoon。
なんでそれを信者と決めつけるのよ。このtomomoonが。

http://soulfire.jugem.cc/?eid=1436

 いくらなんでもこのtomomoon呼ばわりは可哀想です。soulfireさんは、自分がtomomoon呼ばわりされたらどんな気分がしますか?
 たかが「電波」タグをつけられただけで号泣しそうになるぐらいなのに、他人にはtomomoon呼ばわり。やり返すにしたって、やられる側の心の傷も多少は考慮しましょう。
 仕返しとしては強烈過ぎて、なんぼなんでも哀れです。