大の男が泣くということ

  
 何かの番組で、街角を行く男性に「最近、泣いたことはありますか?」という質問をしていて、それに対して「泣かないですよ」や「もう何年も泣いてないですよ」や「子供の頃以来泣いてない」と答えている男性が結構いた。
 大の大人の男が泣くというのは恥ずかしい、という意識からなのだろうか。あるいは、本当に泣いていないのだろうか? それは人間生活を送っていないということか?
 不思議で仕方がない。私はすぐに泣く。格好悪いとも思わない。
 一番最近泣いたのはなんだったかというと、それは「手のひらを太陽に」を聞きながら泣いたことで、こっちは少々恥ずかしいが、泣けるんだから仕方がない。
  
 別に「泣く」と言ったからって、お菓子を取り上げられたとか、箪笥に頭をぶつけたとか、自分の些細なことで泣くことなどはないわけで、基本的には創作物により泣かされるわけだ。
 私は基本的に、あまり小説も読まないし、映画も見ないが、それでも、小説に感動して涙を流したりは、結構記憶にある。
 私は、明らかに小説を読まない部類に入ると思うのだが、世の中の大部分に当たる私よりも小説を多く読んでいる人は、小説を感情移入して読まないのだろうか? それって面白いか?
  
 かと思えば、数年前に見た番組で、感動して泣いた小説のランキングをやっていて、その上位に夏目漱石の『こころ』が入っていた。俄かには信じがたい。読んでないんちゃうか?
 基本的に純文学など、感動する類のものではない。『こころ』なんて、人間のエゴを見せられ、暗澹たる気分を読後感に持つものだ。そもそもどこが泣きどころかすらわからない。
 人によって感動する場面は異なるだろうが、文化によってある程度の傾向はあるだろうし、人間としてある程度の普遍性も認められると思われるだろう。『こころ』で泣くか?
  
 ともあれ、私は普通にすぐ泣く。
 特にすぐ泣く、読んでる途中で結末を思い出して泣いてしまう「トラウマ」的なものに、業田良家の『自虐の詩』やダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』などがある。
 どちらも、泣く人と泣かない人が分かれる作品ではある。
 泣く人間が正しくて、泣かない人間が悪いということではないが、自然と泣けないのは作品を味わうという点では勿体無いとは思うし、両作品とも、泣くことが目的とはならないのが凄い。感動だけではない壮大な、あるいは恐ろしい読後感も残す。
 そもそも「泣ける作品」とか「泣けない」という評価の仕方自体がおかしいと思われる。最初から「泣きたい」のか、作品を読んだ結果として「泣いた」のか。「泣く」のは結果であって、結果として「泣く」のであれば、感情移入できる良い作品であるというメルクマールにはなるかもしれないが、その部分のみが切り取られすぎている気がする。