クスコ太りの伝記

  
 「俺が更新するまで、お前も更新するなよ」という卑劣な脅しを受けたために、更新が滞っておりました。お久しぶりです。
  
 一ヶ月ぶりの続きの話です。
  
 感動する話のパターンとして王道なのが、どうしても抗えない不条理と、自己犠牲という手段があります。
 前者はともかく、後者の自己犠牲は、ある程度定型のシステムが構築されているため簡単であり、逆に簡単である分、読み手側もメカニズムを承知しているため、その「泣かせる」という意思や目的に「あざとさ」を感じてしまい、それを「汚いなぁ」と思ってしまう。
 そして「汚いなぁ」と思いつつも、それでも泣いてしまうわけです。
 無垢な存在であるタチコマが「♪僕らはみんな生きている〜♪」で自己犠牲なんだから、卑怯クセとか思いながらも泣くしかないわけです。ほとんど、笑わせるためには「くすぐっちゃえ」ってぐらいの直接的手段でやられては、あざといけれども泣くしかない。
  
 あざとい自己犠牲のほかにも、感動しているのに素直に感動出来ないパターンがあります。
 少し前に『バトルロワイヤル』という小説が売れました。私も読んだわけですが、非常に文章は稚拙で、設定のみで成功した小説です。
 これは逆に文章が稚拙であったが故に、年少の読者にも「私でも書けるかも知れない」と思わせて、ネット上では設定を借りたさらに稚拙な「外伝」がいっぱいあったわけです。
 で、オリジナルのバトロワは、感動させるべく話を書いているシーンもあるのですが、私には何故か妙に感動しにくいのです。
 それは文章が稚拙だからに他ならないのですが、その稚拙さがどう影響を与えているかと言うと、感動をするには、登場人物のキャラクターに感情を移入するわけですが、私がそのキャラクターに感情を移入しようとしても、既に先客がいる状況なのです。
 作者が、自分で入り込みすぎちゃって、感情を移入させようとした先に、作者が既に居座っちゃっていて、入りづらいのです。
 これは過去、ジャンプに連載されていた『空のキャンパス』という体操マンガでも経験したものです。
 感動させようという意識もさることながら、描いている自分が感動しちゃってるぽくて、読者に感動を与えられない、みたいな。
 もちろん、感動する話で、作者が感動しながら書いているのは少なくないんだろうけど、作者が入り込みすぎちゃって、自分だけのものになっちゃってるという感じがしてしまうのよね。
  
 宮沢賢治ぐらいに、突き放して自己犠牲を描ければ程よい感じなんですがね。
 しっかりやりませうー。