笑って欲しい 君の笑顔が見たいから

  
 僕が仕事の帰りに紀子の部屋に行くと、彼女は泣き腫らした目をしていた。
 僕は驚いて彼女に「どうしたの?」と聞くと、彼女は仕事でミスをしたことについて口を開いた。
 彼女の話は仕事のことでよくわからなかったけれど、ちょっとしたことでミスをしてしまい、責任を負わされているらしい。
 そんなに悪くもないのに、責任者にされて自分の責任にされていると泣いていた。運が悪かったらしい。
 仕事のミスでは、僕にはどうしてあげられることもない。僕が代わりに後処理をできるわけでもなければ、僕が代わりに謝りに行ける話でもない。
 僕にできるただ一つのことは、彼女を元気付けることしかない。
 「紀子が、とてもつらくて大変なんだということはわかった。でも僕は何もしてあげられない。僕にできることといえば、ただ、今、君に笑顔をあげることだけだ。もしここで落ち込んでいたって、明日会社に行ったら解決しているわけじゃない。だったら今夜、笑って過ごせばいい。僕は君の笑顔が好きだから、僕は君の笑顔が見たい。だから僕のために笑って欲しい。せめて今は笑っていよう」
 僕の言葉に、紀子は少しだけ笑った。
 でもまた、笑顔はゆがんで、涙が頬をつたった。とめどなく涙が溢れた。僕の顔を見て安心したのか、彼女は思うさま泣いた。
 職場で味わった悔しさを思い出したのだろう、涙が止まらなくなったみたいで、嗚咽とともに彼女は言った。
 「もう、今日は、帰って」
 僕に泣き顔を見せたくないのだろう。でも僕は、こんなときこそ紀子の側についていてあげたい。
 「大丈夫? 一緒にいるよ?」
 「今日は、ホントに、もう」
 彼女はこう言うと、顔を下にうつむけたまま僕を押し出すようにして、玄関のドアを閉めた。
 泣き顔を僕に見せたくない乙女心を踏みにじることはできない。僕は素直に家に帰ることにした。
 帰り道、紀子のことを思いながら僕は月を見上げた。
 僕は月に願いを託した。
 どんなにつらいことがあっても、君の事を思い、君の幸せを願っている男がここにいるということ、思い出して欲しい。
 君にはいつも笑っていて欲しい。君の笑顔が好きだから。君の笑顔が見たいから。
  
 彼女が泣いているなら、彼女をそっと照らして、僕のことを思い出すように。
 少しでも心の支えになれるように。