笑ってよ 僕のために?

  
 私は自分が嫌だった。心底嫌になった。
 それは私の不注意であったし、ある意味で不運なだけだった。
 私が気が付けば回避できた問題だったかもしれないが、私ではない誰が担当になっていても、それに気が付くことはなかっただろう。
 誰にもわからないような書類の不備を、たまたま私が引き受けてしまい、それを私が見逃して、それが大きな被害を生み出した。
 もちろん書類を作成した男性社員の不手際もあるけれど、その書類を最終承認してしまった私が、最終責任者として責任を取らされる。
 最終チェックとは名ばかりで、実際のところはコンピュータ入力と盲判。もはや書類が複雑すぎて担当者しか内容を把握できないのだから、回ってきた書類を信じるしかない。ただ慣例としてコンピュータ入力の後に、私たちのチームが承認印を押しているだけだ。
 しかし、その承認印は「不備なし」と私が確認した証拠とされている。確かにそのための承認印だ。
 確かに、少し注意深くチェックすれば、不備に気が付いた可能性もあるが、ほとんどの内容がわからなくコンピュータ入力だけがルーチンワークと化している現在、実質的な内容のチェックは営業担当者の仕事のはずだった。
 しかし、こと責任問題となると急に杓子定規に、承認者の私に責任がまわってきた。
 内容を把握しようとすると「余計なことに口を出すな」と言われるのに、裁可の責任だけは負わされる。私はトカゲの尻尾として働いているのだろうか?
 どう解決するのかも、どう解決していいのかもわからない。ただ明日、かなり上のほうの上司に事情説明をすることが決まっていて、そのまま担当者と取引先に謝罪に行くことになるだろう。
 それ以外、これから何がどうなるのか、どうすればいいのか、何もわからないことが不安で仕方が無い。悔しいけど、ただ、次々と涙が溢れてくる。
  
 そんなときだ、雅志が私の部屋に来たのは。
 私が玄関のドアを開けると、雅志はすぐに私が泣いているのに気が付いて「どうしたの?」と訊ねた。私は仕事上のトラブルについて話をした。雅志は神妙に聞いていた。
 つまらない愚痴を聞いてもらって申し訳ないなと思いつつ、私は不満と不安を吐き出すように喋り続けた。
 私が涙ながらにひとしきり話し終えると、雅志は私にこう言った。
 「紀子が、とてもつらくて大変なんだということはわかった。でも僕は何もしてあげられない。僕にできることといえば、ただ、今、君に笑顔をあげることだけだ。もしここで落ち込んでいたって、明日会社に行ったら解決しているわけじゃない。だったら今夜、笑って過ごせばいい。僕は君の笑顔が好きだから、僕は君の笑顔が見たい。だから僕のために笑って欲しい。せめて今は笑っていよう」
 ふざけてる。笑えるわけがない。今、笑って解決するならいくらでも笑ってやる。
 それでも私は雅志に笑おうとしたが、顔が引きつって笑えない。
 人がこんなに落ち込んでいるのに、こんなに不安なのに、笑って解決できる問題でもないのに、私が死ぬほど悩んでいるこんなときに、自分に笑顔を提供して欲しいって、なんて身勝手な男なのだろう。
 笑えない。笑えない。笑えるわけがない。笑わない。何もなくたってこんな奴に笑ってやるものか。
 私はこれまでの雅志との思い出を反芻してもなお、目の前で笑っているこの男が許せなくなった。
 悔しくて、悔しくて、涙が止まらなくなった。
 「もう、今日は、帰って」
 私は搾り出すようにして言った。
 「大丈夫? 一緒にいるよ?」
 雅志は私の心配より、私の側にいたいだけなのだろう。
 「今日は、ホントに、もう」
 私は声が出なくなり、雅志を押し出すようにして、玄関のドアを閉めた。
 これからの仕事のこと、三年付き合った雅志とのこと、私は一晩中ずっと泣き続けた。