id:torlyさんは不親切過ぎるが本人は本当に満足なのか?

  
 文章を書いて公開するという行為には、そこには、自分の考えを部分的であれ理解されたいという欲求や、私の理解したことを他者に伝えたいという滑稽なまでに素晴らしい使命感などの、何らかの「わかってもらいたい」とか「共有したい」とかの意図ががあるわけです。
 もちろん、「感情を共感」的なレベルではなく、難しい概念的なことを伝えたい場合には、ある一定層以下のレベルには伝えることを諦める必要性はあって、最低限、これ以上はわかる能力のある人にだけわかってもらえばいい、という脚切りは発生します。
 たとえば「本当の私を誰もわかってくれない」と言う人に、「本当の『私』ってなに?」とか「あなた自身は『本当に私』を知っているつもりなの?」という説明以上に、わかりやすく説明するのも難儀なわけで、おそらくの場合は、優しくわかりやすく説明したってわかりやしないし、そもそもその程度の人が「自我」の概念について根源を知りたいと思っているわけがないのであって、「本当の私」は追究対象ではなく、自意識を慰める道具として利用したいだけであり、原則的にはそれで充分。
 しかし、そこで、もっと根源的に知りたいと思ってしまう病気な人間は一定数存在して、愚かにも苦しんだりすることを楽しむ人までいたりするから厄介だ。そういう人は、なんとか数少ない同志を求めたがるようである。
  
 それぞれが、それぞれの階層に応じて、自分の考えを部分的であれ理解されたいとか伝えたいという欲求や使命を感じてネットで文章を公開していると思われるわけなのだが、id:torlyさんはそもそも伝えようという意図があるのだろうか?
 torlyさんは、異常なまでに不親切と言うか、伝える気がどこまであるのかわからないほどにわかりにくい文章を書く。
 わかる人にはわかると言われるかもしれないが、異常に脚切りのラインが高過ぎる。
 おかげで読むのにえらいこと手間や時間がかかったり、文意を読み取っても、その意図で言っているのか、他の反応を見たりするといちもつの不安を感じたりすることがある。
 どう読んでみても文意を理解しているとは思えないような反応や、私とは全く真逆の意味に受け取っていそうな反応やタイトルに騙されているように映る反応を見ていると、少なくとも自分の意図通りに伝わっていない「意思表示」であって、それって果たして楽しいのかと疑問に思ってしまう。
  
 内容が高度すぎて伝わらないというのは、仕方が無いというのはわかるのだけれども、伝え方が不親切で伝わらないとなると、そもそも書こうと思った動機がわからなくなる。
 能力の問題とは思えないので、伝えたいことを伝わりにくく書くという本意がどこにあるのかが、大変気になる。

メモ

id:torlyさんは不親切過ぎるが本人は本当に満足なのか?
・「仄めかしメソッドは全て私が引き受ける」
・たけし→上島竜兵池乃めだか
・ネットをはじめ多くの人間関係なんて所詮は他人事なんだけどさ
・「カテゴライズで他人を判断する人たちは阿呆である」 reply
・乗り遅れた「取説」の消化試合処理
・背番号51
無宗教が格好良いと勘違いしている奴が「ラディンって莫迦w 宗教信じちゃってるしw」みたいな
・弱い者が泣き言を言って何が悪いか問題

 「カテゴライズで他人を判断する人たちは阿呆である」

  
 多くの人間は自らを分析されることを部分的に嫌う傾向があり、客体であるが故に相手の上から目線に「あの人は分析をする人」と反発を感じたりする。
 元の客体を主体として分析としている人を元の被分析者が客体として規定対象にした場合、自らを分析者として振舞うことになる。
 個人の多様性を認めよという主張が、性別や学歴などカテゴライズで人を判断するような人たちの多様性に着目しないのと同じ類の罠である。

 亀田家の最大の失敗を考える

  
 これまで、全戦全勝、相手を問わず全くの無敗街道を歩んできた亀田一家。
 TBSと二人三脚で富も名声も手に入れて、飛ぶ鳥も落とす勢いの勝ち組だった亀田家に凄まじい逆風が吹いている。
  
 亀田史郎トレーナーは、「大毅は一からの出直しや」と言っている。
 これは、亀田大毅選手が有限実行、切腹して果てた上で、輪廻転生で生まれ変わって、来世で世界チャンピオンになるという悲壮な決意の表れだろう。
 来世に意気込む大毅は来世で頑張ってもらうとして、影響は父親である史郎や兄の亀田興毅にも今世で及んでいる。
 あれほどのこの世の春を謳歌していた亀田家が、一家揃って、何故ここまでの凋落を味わう羽目になったのか。これはどう考えても神の逆鱗に触れたとしか思えないような状況だ。
  
 それで思い出すのがこの事件だ。
 大毅の試合の四日前の日曜日、TBSテレビ系「サンデー・ジャポン」で興毅が沢尻エリカ様を批判していたと言うではないか。これは単なる偶然と考えていいものだろうか?
 私はエリカ様の歌を聞いて持病の癩病が完治したことがある。これはもうエリカ様には、人智では計り知れない何かがあると思わないではいられない。
 エリカ様がなんか凄いという評判は前から聞いていたが、日曜日のことを、早速にも木曜日には神罰を与えているとなると、その御稜威は畏るべきものだ。
  
 荒ぶる神としてのエリカ様に不敬な態度を示した有名人は他にもいる。
 和田アキ子勝谷誠彦ジャガー横田などにも、神罰が下されるのか、それとも寛大にも赦されるのか、私は心配でならない。

 亀田大毅を罵るような批判に思う

  
 ネットにおいて、WBC世界フライ級タイトルマッチでチャンピオンの内藤大助選手に敗れた亀田大毅選手を、罵ったり侮辱したりしたような批判を多く見かけた。
 たしかに亀田は、その兄弟はおろか、父親まで一緒になって、みっともない挑発をしたり、相手を侮辱したり、酷い振る舞いをしてきたのは事実である。その点は批判されて当然だ。
 しかし、私としては、亀田をそこまで悪し様にボロクソに貶す人たちに、どうしても眉を顰めて見てしまう感情も隠せない。
  
 男が命を懸けて戦って、それに敗れて責任をとって腹を切ろうというのに、死者に鞭を撃つようなことをするなよ。
 これから彼は、十八歳という若さで、自らの死という恐怖と、そして、腹に刃を突き立てるという痛みと、戦わなくてはならない。
 三分十二回を戦った末、これからまた、死の恐怖と、さらには切腹の恐怖と、戦おうという。
 その男に対し、これから潔く散ろうという男に対し、いまさら罵倒の言葉など投げかけるべきではない、と思ってしまう。
  
 これまでのビッグマウスが祟って、あるいはこれまでの言動によって、非難を浴びせられるというのはわかるのだが、しかし、死を目前にしてもなお侮辱をもって叩かれるのは、私はどうにも不憫でならない。
 たかだかボクシングの試合に負けただけで、それに自分の命を懸けようというのは、たしかにそれはそれで愚かな振る舞いだったかもしれない。
 しかし、彼はその約束に対して、誇りを持って挑むはずである。敗れた以上は武士に二言はなく全うするしかないのだが、せめて、潔く逝こうとする彼を、罵りの言葉で送るのではなく、静粛な気持ちで見届けてやりたいではないかと、願わずにはいられない。
  
 人が一人死ぬというのに、その命を、しかも、日本人の情緒に少なからぬ厳粛な気持ちを与える切腹という儀式を迎えようという彼に、もう少し礼節を持てないものだろうか?
 これを「日本人の感覚」と呼んでしまうのは、あらゆる意味でセンチメンタリズムに過ぎるのかもしれないが、私は、命を懸けて戦った男の最期を、それに相応しい礼節を持って見送りたいと思っている。

 亀田大毅切腹!

  
 WBC世界フライ級タイトルマッチで、チャンピオンの内藤大助選手に大差の判定で負けた亀田大毅選手は、試合前に負けたら切腹すると言っていた公約どおり、まもなく切腹するもよう。』
  
 という新聞記事を四大紙で書いて欲しいな。
  
  
 リアル切腹かぁ〜
 何年振りだろう? 有名どころからだと三十七年振りか。
 介錯は誰がやるんだろう? 自殺幇助に問われないのかな?
 まだ十八歳なのに。もったいないなぁ。でも仕方がないか。
 内藤大助チャンピオンには、亀田大毅の分も活躍して欲しいですね。

 id:torlyさんへ質問

  
 torlyさんからトラックバックをいただきました。
 私の書いたことをきちんと踏まえて返答をしていただいた唯一のエントリで非常に面白うございました。
 ポストモダンを経た現在、踏まえたうえで、多数並列に提示されている「宗教」の中から、どれを「自覚的」に選び取るのか、という作業が重要になってくるわけで、その中で結局は「人権」とか「民主主義」とか「科学」とか「リベラル」という「宗教」をまた選び直す人も出てくるだろうけれども、そこには落とし穴があるわけです。
 少なくとも建前上であれ実質的であれ、現在の「価値観」として覆っているパラダイムを信仰する場合は、その信仰が自覚的であるのか無自覚であるのか、常に確認をしないといけないわけです。
 「体制的」ではない信仰であれば、ことあるごとに信仰を試される機会にぶち当たり「自動的」に再確認させられるわけです。
 まぁ、もっとも、現在の「価値観」として覆っているパラダイムに流されそうになるのはお互い様ではあるんですが。
 ともあれ、torlyさんは「自覚的」に「リベラル(と言ってしまっていいよね?)」を選んでの宗教対立の話にて返答をくれたわけです。
  
 宗教対立ですから、どっちの「神様」が現世利益に適っているのか、とか、どちらが極楽浄土に近いのか、とか、こっちの楽園のほうが綺麗だ、とか、こっちの水のほうが甘いぞ、という争いをするわけです。
 そのうえで、相手の矛盾を突付き合うのが「安土宗論」です。
  
 私が先のエントリにて、インテリは不用意なことは書かないという話を書いたわけですが、torlyさんは「マイノリティ(笑)差別反対(笑)」にて、きちんと腐れインテリ病を発揮されて、保険を掛けまくりのエクスキューズ満載です。
 「かもしれません」の連呼はやり過ぎなほどですが、これは私も他人の事は言えないことをしていそうなので、結構なお手前で、と申しておきます。
  
 さて、torlyさんが以下の問題をどう処理をしているのかを教えていただきたいので質問します。気が向いたらお教えください。
  
1. 「自我」とは何によって形成されるのか?

DQNの子はDQN」という世間知て、そりゃそもそも科学ですらないし、「人間」は環境が作るが真理などというと増田だったら釣り記事扱いというのが真理。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070926#1190823223

 前半部分の「世間知」については、そもそも誰も「科学」と言っていないのはお互いに了解済みのことだと思うので置いておくとして、後半部分。
 ここでもtorlyさんは、自分の意見ではなくて「増田だったら釣り記事扱い」というエクスキューズが利く書き方をされているわけですが、torlyさん自身は如何にお考えなのでしょう?
 私は「人間」は環境が作る、という真理と、ここだけは断言で書いているわけですが、さらにはこちらでも人間が環境によって形成されるとわかっていると再度断言しています。
 何故に私が、ここに関してはしつこく断言しているのかというと、他の要因が思い付かないからです。
 逆に言えば、「生来的」な影響などは「遺伝」などの形質以外は思い付かないし、その差異も、「環境」に比べればほとんど無視をして差し支えない程度のものと思えます。
 さらに言えば、「近代的」な「人格」もしくは「個人」というものの「自我」の「本質論」を、その「精神」や「魂」という架空のものに預けるならば、その精神が、その遺伝を持つ身体に宿るのは、その精神の「理性的」な選択による(自己責任)と見做すのかどうか。

発言上人間性は生得的であるとしてもぼかしても、あんまり人々の下す判断は変わらないようです。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 というかたちで、この部分に関してはtorlyさんは「ぼかして」いらっしゃいますが、その言説の効果がどうであるかではなく、torlyさんの認識がどういうものなのかに興味があります。
  
2. 「民主主義」の特殊性から生まれる問題

さらに複雑なことに、武器として統計を積極的に援用すべきだと思っており、今のところ統計は大半「宗教」を裏付けるものであり、統計に表れるかもしれない傾向故にアンチ「宗教」格好悪いと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 ここでいう「アンチ宗教」は、今現在日本社会で建前上支配している「アンチリベラル」であると認識して話を続けます。
 ここで「統計」が味方をするのは「現在の支配的なパラダイムであるから」ということだと思います。
 「民主主義」というのは「啓蒙」を建前上は必須にしています。
 しかし、現状として、「現在の支配的なパラダイム」という「自覚」がある人間というのは極少数です。
 「民主的」な言い方をするのであれば、大衆は「体制のパラダイム」に「洗脳」されている状態です。
 全ての「価値観」を同じ地表に並べて、其々が各々の「理性」で選び取ったのであれば、それは「民主的」に意味のあるものになるでしょうが、そういう必要と思われる選択のための「情報」が無いままで多数支持を集めるのは、「啓蒙」の観点から「リベラリスト」はどう考えるのでしょうか?
  
 次に、政治的な実務作業として、ブラジル人排斥を支持する「世間知」で身を守ろうとする者を、坑儒焚書しようとされるわけですよね。
 「民主主義」的に、torlyさんが「脳がお花畑」とするNIMBYの連中を排除するのは、論理的な内部矛盾をどう解決するのでしょう?
 「民主主義」は多様な思想を許容するという建前が重要なポイントの一つですが、その「反民主主義」という立場に対しては、多様な思想を許さないというのであれば、他の「宗教」と同じであるし、そもそもの「理念」が吹っ飛んじゃってます。
 言ってみれば、ブラジル人を全て排斥どころか殺害した上で「私たちの地域ではブラジル人差別はありません」と言っているのに等しいわけです。ブラジル人が全滅していていないんだから、差別しようがありません。
 まぁ「リベラル」の大元が、ヴァンデに地獄部隊を派遣したわけですから、兄弟分の「宗教」が行ったホロコーストも粛清も同じ道でなんでもござれと言うことなのかもしれませんが。
  
 このあたりの整合性について、どのような処理をしていらっしゃるのか、よろしければ教えてください。
 「異教徒は殺せ。莫迦は騙せ。理念なんぞは糞喰らへ」という、「民主主義」を根底から覆す立場であるとするなら、その「反民主主義者」の異教徒認定は如何な扱いになるのでしょうか?